京極夏彦・メタフィクションについての一考察

何かと京極ファンの間に物議をかもしたであろう『どすこい(仮)』において、 京極は『ウロボロスの基礎理論』に倣ってメタフィクション的な短篇を著したわけだが、 京極堂シリーズにおいて既にその片鱗を表している事は既にお気づきの向きも多いだろう。 もともと現代ミステリはメタフィクションとなじみが深い。 当初インタビューで「ミステリ作家のつもりはない」といっていた京極も、最近はミステリ作品の選考に関与したり、 自分がミステリ作家でもあると認識を変えたように見受けられる。

京極堂シリーズ内で、もっとも自己言及的な表現は、 何といっても『絡新婦の理』中の下記の一文に尽きる。

「敵は―――――事件の作者だ。君達は登場人物だ。登場人物が作者を糾弾する事はできないぞ。」
(『絡新婦の理』京極夏彦著 講談社ノベルス 1996年出版 p.496

 この一文は、少しずつ形をかえてこの後も再三繰り返される(P.501,524,586)。
もっとも直接的にはこの場合の「事件の作者」というのは京極夏彦を指しているのではなく、 作中の事件の首謀者(この時点ではまだ特定されていない)を指しているのだが、 読者にしてみればどうしたって京極夏彦自身の事を思い浮かべずにはいられない。 筆者自身その効果を意識しているであろう事も明らかだ。 そもそも京極堂こと中禅寺秋彦の名前自体、直接は指さないままに 京極夏彦を思い出させずにはいないようになっている。

別の例をご紹介しよう。

「『―――前回の事件といったって知らない人は知らないだろう。
そちらの方だって何の話だか解りはしない。解らないでしょう?』 
中禅寺は僕に視線を向ける。当然解りはしない。」
(『百器徒然袋―雨』京極夏彦著 講談社ノベルス 1999年出版 P.89)

作品を読んでいただければ分かるが、ここで「前回の話」が分かっていないのは語り手一人である。
しかし中禅寺の「そちらの方だって」というセリフは、あたかも前回の話というのを知らない人が 複数いるかのような口ぶりである。 しかし実際には物語中それに該当する人間は存在しない。 物語中に存在しない以上、そのセリフは、物語の外にいる読者自身を読み手に意識させる。
そんな事を思いながら少し先へ読み進むと、続く榎木津の

「『解っていようが解っていまいが関係ないと云うことも解らないような奴は放っておけばいい!』」>

というセリフも、場合によっては前作を飛ばして読んでいる読者達に向けられてはいないかと冷や汗をかくのである。

このように京極堂のシリーズでは筆者のメタフィクションへの傾向がみられるのだが、
決定的に京極夏彦本人や我々読者そのものへの直接の言及はなされない。 つまり、メタフィクションそのものではないのである。
作中中禅寺が「あちら側とこちら側」の境界に立ちつづけるのと同様、 京極堂シリーズもまたフィクションとメタフィクションの境界に立つ作品であるといえよう。

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